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1-8 疑惑

last update Last Updated: 2025-09-20 11:08:19

 宝石店の窓際から沙月の背中が遠ざかっていく姿を、司は無言で見送っていた。

澪が腕を絡めている感触が、妙に鬱陶しく感じられる。

「ねえ司、これなんか素敵じゃない?」

澪がショーケースのイヤリングを指差すも、司の視線は窓の外に釘付けだった。

(……沙月)

「ねぇ? 聞いてるの? 司」

澪に強く腕を引かれ、司は我に返った。

「あ……すまない。どのアクセサリーも澪に良く似合うよ」

「そう? なら好きなものを選ばせて貰うわ」

「ああ。そうするといい」

作り笑いを浮かべながらも先ほどの沙月の様子を思い出す。

痩せた背中。指輪をしまう手の震え。

何も言わず、ただ静かに去っていった彼女の姿が何故か脳裏に焼き付いて離れない。

(何故、今頃になって沙月のことが気になるんだ? 生意気にもこの俺に離婚を切り出すような女だと言うのに……)

その時、司のスマートフォンが着信を知らせた。

画面には秘書――佐野からのメッセージが表示されており、司の眉がわずかに動く。

澪はそのことに気づかず、別のアクセサリーを手に取ると笑顔で振り返った。

「ねえ司、これなんか素敵じゃない? 私の肌に似合うと思うの」

しかし、司はスマホを見つめたまま低い声で返事をした。

「……すまない。会社から緊急の連絡が入った。少し外す」

「え? でも、あなたは今日の午後、一緒にアクセサリーを見に行くって約束してくれたのに」

司は澪の不満を無視し、店員にブラックカードを差し出した。

「支払いの際は、このカードでお願いします」

すると澪の顔がわずかに歪む。

「……まさか、沙月さんのことじゃないでしょうね?」

その言葉に、司の表情が一瞬だけ強張った。……だがすぐに、冷たい目で澪を見る。

「君には関係ない」

それだけ告げると司は背を向けた。

「ちょっと待ってよ!

澪は勢いよく手を伸ばし、司の袖口を力いっぱい掴んだ。

指先が強く握りしめたせいで、白くなっていく。

しかし司はただ視線を落とし、冷たく一瞥をくれただけだった。

その無情な表情に、澪の身体に背筋が凍るほどの寒気が走る。

「朝霧さんが、いつから天野グループの案件にそんなに興味を持つようになったのか、実に興味深いな」

澪はハッと息を呑み、顔色が一瞬で凍りついた。

喉が何かで塞がれたように、言葉が出てこない。

司はそれ以上澪を見ることなく、無理やり手を振りほどくと大股で宝石店を後にした。

「……っ!」

澪は唇を噛みしめ、司の背中を睨みつけ……沙月の顔を思い浮かべる。。

(沙月……本当にしつこい女ね、口では離婚だなんだと言いながら、どうしてまだ司にまとわりつくのよ!  可哀想なふりをして同情を買えると思っているなら大間違いよ。今度こそ、完全に消してやる………司の世界から永遠に!)

その瞳には、嫉妬と焦りが混じった毒々しい光が宿っていた――

****

店の外に出た司は、すぐに佐野に電話をかけた。通話が繋がると、彼の声が聞こえてくる。

『社長、事故現場の監視映像が確認できました。澪さんの証言と食い違っています』

「どういうことだ?」

司の足取りが早くなる。

『事故直前に車道へ飛び出した人物は、沙月さんではありませんでした。澪さんの元マネージャー・佐伯です』

「……佐伯?」

「はい。しかも事故の直前、澪さんと佐伯の通話履歴が残っていました。通話時間は事故の約5分前です」

司の拳が震えた。

(澪が……わざと事故を仕組んだ?)

『さらに、澪さんの妊娠についても確認しました。診断書は提出されていますが、病院側に照会したところ、澪さんは診察を受けていませんでした』

「……!」

司の胸に、怒りが湧いてくる。

(澪は……俺を騙した。沙月を貶めるために)

『病室での密会写真も、SNSに流したアカウントも元マネージャーの物だと判明いたしました』

「つまり……盗撮じゃなく、澪が仕組んだということか。すぐにそっちへ向かう!」

司は通話を切ると車を手配し、交通管制センターへ向かった。

***

都内の交通管制センター。

専用ルームに入った司は、佐野と供にモニターの前に立っていた。操作機器の前にはセンター長の姿もある。

「天野社長、こちらが復元映像です」

センター長がモニターを操作すると監視カメラの映像が映し出された。

雨の交差点。澪の車がゆっくりと進んでくる。

その直前、傘も差さずに飛び出す一人の女――澪の元マネージャーの佐伯だ。

「……彼女だな」

「はい。澪さんの元マネージャーです。事故後に退職していますが、澪さんとの接触記録は最近まで残っています」

「……澪が仕組んだのか?」

司は拳を握りしめた。

(沙月は何もしていなかった。あの時、俺に電話をかけてきたのは……助けを求めていたからだ)

司は佐野に命じた。

「澪の関係者を徹底的に洗え。事故の証拠、妊娠偽装、SNS流出――全部だ。徹底的にだ」

「かしこまりました」 

司はじっとモニターを睨みつけた――

****

――一方その頃。

一人の女が怯えた様子でスマホを見つめていた。

トゥルルルル……

トゥルルルル……

先程からずっと着信音は鳴り続いている。女は一度深呼吸するとスマホをタップした。

「はい、もしもし……す、すみません。色々忙しくて電話に出ることが出来なくて……」

女の声は哀れな程震えている。

「え? 今、何て………もうこれ以上のことは無理です! あ、あんな大事故になってしまったのですよ……? え? 死者が出なかったから構わない? そ、そんな……!」

しまいに涙声になる女。

「……はい……え? それでもう終わりにしてくれるんですね? ……わ、分かりました……澪さんのおっしゃる通りにいたします……失礼いたします」

ピッ

女は通話を切ると、何も物がない空っぽの室内で嗚咽した――

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